1984年9月16日、母の実家近くである杉並区の東京衛生病院にて生まれる。 転勤や海外出張が多かった父親の仕事上の都合で、生後6ヶ月まで京都府長岡京市に暮らした後、東京都杉並区荻窪に引っ越し、3歳からイギリス領香港で暮らし、家族と共に飛行機に乗り様々な国を飛び回った。 その後、不動産屋であった祖父の紹介で、両親が東京都小平市に自宅を持ち、8歳の時日本に帰国する。
帰国後、文武両道で地元の少年野球チームや水泳などスポーツを行いながら、学問も非常に優秀な成績を修め、 近所の学習塾の講師の勧めで、当時日本有数の名門中高一貫の進学校とされていた練馬区の私立武蔵中学校に入学した。 多くの学者や政財界のエリートを輩出する学内でも成績優秀であったが、当時所属していた野球部顧問のしごきを機に、同級生の少年グループからいじめのターゲットにされ、 暴行も伴う苛烈で非常に陰湿なものへと発展し、それは高校を卒業するまで続いた。
そんな中で17歳の時、近所の書店のイベントで来ていた歌人の俵万智と偶然出会い、それを機に短歌を作り始めた。 「塔」や「未来」等の様々な短歌会に参加し、自身の心の叫びを短歌に込め、膨大な短歌をコンクールや短歌大会に応募した。 高校卒業後、いじめによる後遺症に悩まされ、入院や自宅療養しながらも早稲田大学の通信制で懸命に勉強を重ね、20歳の時、三枝昂之主宰「りとむ短歌会」に参加する。 大学生時代は、古典から近現代の短歌まで幅広く学ぶ傍ら、大学教授の影響でフランスの象徴主義などの欧米の詩の研究も行い、卒業論文では歌人であり、映画や劇作家としても著名な寺山修司について研究した。
早稲田大学卒業後、商業規模の小さい短歌業界では、出版社問わず若手からベテランまで出版費用を自己負担する自費出版が慣例であるため、 自身の第一歌集の出版のため、非正規雇用で物流倉庫や事務職で懸命に働きながら、創作活動を重ね、30代になる頃には多くの賞を受賞し、累計で二千首近い短歌を発表していた。 2016年末頃に第一歌集の出版を考え始め、2017年初頭には歌集『滑走路』とタイトルを決め、表紙デザインなども出版社に要望を伝え、全てを完成させた。
萩原慎一郎は短歌の世界では、抜群の才能を発揮し、新聞や短歌誌などあらゆる媒体に名前が載り、一目置かれる存在となっていた。しかし、非正規雇用で働き続けなければならないという将来への不安、 いじめによって負わされた消えない後遺症、いじめがなければ違う人生があったかもしれないなど、日々様々な事に悩んでいた。 2017年6月8日、いつも通り朝早く起きて、次回の雑誌や賞のための短歌を創作した後に仕事に出掛けたが、そのまま帰ることはなく自ら命を絶った。 葬儀には友人や短歌関係者、同じ職場で働く仲間達など大勢の参列者が集まり、誰もが口を揃えて真面目で優しき青年であったと語った。
その後、完成されていた歌集『滑走路』は2017年12月25日に出版された。 歌集『滑走路』は希望、今を懸命に生きる人々の輝き、自らの想い、恋、小さな幸せを短歌で表現し、様々な垣根を超えてあらゆる層から共感を呼び、平成時代のベストセラーとなった。
現在では、文学の枠に留まらず、映画、音楽、芸術など様々な分野にも影響を与え、高校国語の教材にも採用され、日本文学を代表する歌人として高い評価を受けている。